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野鳥の写真などを時々公開

薬師寺

写真/野宮昭治
先日は、ここ薬師寺金堂前での仕事でした。東塔(国宝)は解体調査中で見られませんが、ついでに撮ってみた西塔はご覧のように奇麗な三重を見せていました。
三階層の屋根反り(勾配)は、白鳳建築を再現していて東塔に比べてなだらかになっています。

 

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  1. 2013/01/23(水) 01:29:22|
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650年当時の河内湾想像図

ピクチャ 3
あくまでも想像の域は出ないので、予めご了承のほど・・・^^
子供の頃は、歴史・社会の授業になると決って眠くなっていました。

歴史のまっただ中にいる利点を最大限に活用して調べています。
地図の赤い印は、当時、つまり645年頃、このような地形だったと想定しました。
夢太郎のいる地域は、日下(くさか)盾津の近くです。ここは、古事記に登場する神倭伊波礼琵古命(かむやまといわれひこのみこと)が上陸しようとした地です。この辺りまで、海だったようです。汽水湖だったのかも知れませんね。
蘇我一族か支配する政治から、天皇家中心の政治を目指した改新の詔が発布され、都は飛鳥から難波へと遷されます。
気候は今より温暖だったようで、難波辺りは今で言う避暑地だったのかもしれません。内海の中に更に内海があるといった地形です。最高のリゾート地だったのではないでしょうか。
また、建築資材は倭川を使って飛鳥から運んだと思われます。
神社仏閣は、今でも解体修理が出来るのですから、当時は当然建物を解体して運んだ事でしょう。


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  1. 2010/04/16(金) 01:19:09|
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興法寺

NS20100410のコピー
興法寺へは、自宅近くにある石切大明神上社の登美霊社(写真中央)横から、辻子谷沿いにほぼ一直線に登って行きます。
写真を撮りながら登ったので、2時間ほど掛かりました。
ここの縁起は、約1360年前だそうです。計算すると、宮廷が難波にあった時代です。
歴史的には飛鳥時代と言う事になりますね。
古刹どころの話ではない。当然、神仏習合だったのでしょう。
その名残りかどうかは定かではないですが、寺の入り口には鳥居が普通に建っています。
立地は、急斜面にあって立派な石垣で覆われ、見るからに要塞そのものです。
案内板を見ると、近世には何度となく戦火に見舞われたとあり、当時の面影はありません。
しかし、今も寺院近辺の道は険しくて「修験道」に相応しく感じました。
あの弘法大師も若かりし頃、ここを修行の場としていたようです。
周りはと言うと、境内横の大きな紅葉の新緑が、何十にも重なってとても綺麗でした(写真)。
とか、色々書いちゃいましたが、結局のところ、野鳥くんにはふられたと言う訳です^^;

【こうほうじ 大阪府東大阪市】

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  1. 2010/04/14(水) 01:40:22|
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観桜 -石清水八幡宮-

IMG_9490.jpg
以前、コウノトリが淀川に来ていると言うので探し回ったことがあります。
川沿いを魚の如く溯り、たどり着いた所が木津川・宇治川そして桂川が交わる所でした。
堤防の上には、立派な桜並木道があります。
「今度、桜の時期にはここで撮影やな。」
と言う訳で、本日そこへ行ってみました。しかし、人人人で大渋滞でした。みなさん考える事は同じですね^^;
仕方なく左岸から撮ろうと思ったのですが車を止められず、結局新興団地へと上ってみました。
エジソン・・・とかと言う広場にたどり着きましたが待望の桜並木は見えません。
で、ここが「石清水八幡宮」だったのでした。ここの桜も中々立派で、結局ここで桜撮りとなりました。
以前から、「神社仏閣で訪ねてみたい場所ランキング」に入っていたのですが、偶然にも訪ねてしまったと言う訳です。
IMG_9518.jpg

【かんおう -いわしみずはちまんぐう- 京都府八幡市】

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  1. 2010/04/09(金) 01:30:45|
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石切劔箭神社太鼓台巡行

0011.jpg
ここは、私の住まいの近くの神社です。
17日・18日と布団地車(だんじり)が町内を練り歩きました。
五穀豊穣を喜び、御神徳に感謝をささげる収穫の祭なのだそうです。
しかし、果たしてそれだけの為の太鼓台だったのでしょうか。
ここの奥社、つまり「上の宮」には饒速日命(にぎはやひのみこと)を祭神とし、本宮には、その子、可美真手命(うましまでのみこと)を祭神としています。
両命と、先日の枚岡神社の祭神、天児屋根命(あまのこやねのみこと)とは敵対していた訳でありますが、饒速日命は神武天皇東征のとき、同盟を結んでしまいます。
そして、この地区一帯は、天児屋根命が長(おさ)となり物部氏などを中心に栄えてゆくのです。
要するに、神社の目的は、今で言う軍と棟梁たちの駐屯地であり、事のありようを占う施設だったと私は考えています。
太鼓台の持つ意味は、兵隊の統率に用いたように思います。太鼓のたたき方によって「進軍」「後退」などの合図に使ったのではないでしょうか。
その後、平和になっても、軍事用具などは当然残り、軍事訓練は続いたものと思っています。
しかし、農業も大切な仕事でしたから、とりあえずは収穫後に行っていたと推測しています。
進化しながら派手さを増し、現在のようになっていったものと勝手に考えています。
上部には棟梁や参謀などが陣取ったのでしょう。
写真は、宮入する植附太鼓台です。
【いしきりつるぎやじんじゃたいこだいじゅんこう 東大阪市】

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  1. 2009/10/20(火) 01:28:41|
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